昭和三十九年十一月二十六日 夜の御理解



今晩はご祈念の前に家族の者が殆ど、光昭以上の子供達両親を始め家内達迄ご祈念前にお広前に出て来て、お広前でこうぬかずかせて頂いてから、それぞれのご祈念をさして頂いておる姿を私はここから見せて頂いてから、まあー今日、始めて神様に何か申し訳が立ったと言ったような感じのご祈念をさせて頂きました。
丁度、ご祈念する前まで私はあの甘木の安武松太郎先生のご伝記を一部読ませて頂いておった。ほんとに家族の者の信心が出来ぬから神様のお詫びの印にと言うて、ちょいちょいご結界に夜通しのご奉仕をなさったと言う事やら。
 あちらのご両親がほんとに結構なおかげを頂かれて、近所の方達があー言う生活を三日でも良か、させて貰いたいと言うて、羨ましがられながら亡くなられたと言うお話しやらあるのを見てから、両親だけじゃない、私共の方のあたりの場合、もう家族中の者が、これだけの家族の者が何の不安もなからなければ、もうー、人情をつかう事もいらない雰囲気の中に、日日こうしてお賄いのおかげを頂いておると言う事は、ほんとにもう何と言うても神様にお礼の申し上げようもない程のおかげである。
ね、そう言うおかげを頂いておるその心がご神前に額ずかせて頂いて、感謝の祈りになりご祈念になる。
ほんとに、ここにおかげを頂いておるのだから、朝のご祈念には間に合わなくても、せめて夜のご祈念ぐらいは、皆んが顔を揃えてお礼を申し上げてくれればいいけれどもと。これは私の思い。それは言わんけれども、今日のようにです、皆んなが揃ってお礼を申し上げておるご祈念の姿を見てから、神様にお礼を申しあげるより何にもない、神様相済みません、私が神様に相済みませんと言うてお詫びをしておる時には、それだけ私の信心が減っておる時なんです。神様にお礼を申し上げてておる時には、それだけ余分な力が他に持っていけれる時だ。ね、例えば、甘木の安武先生の場合でもそうでしょうが、家族の者の信心が出けんからと夜通しそのお詫びをなさったと言う。
例えば、そう言う信心が、信者が助かる事の為に成される事になったら、それだけプラスになるでしょうが。ここでは勿論、私が助からなければ皆んなが助かりません。私が助かると言う事になって、家族が助かる、また、家族全体の者が助かって、私はいよいよ又、より沢山の人が助かる一つのおかげの手本が出来る。
朝に晩に、ほんとに感謝の祈りを捧げなければおられないようなおかげを頂いておることをです実感する時、それを思う時にご祈念ぐらい出て来なおれないと言うような信心に、家族の者が進んで行くと言うそれだけおかげの世界が広がって行く。椛目で助かって行く人達がそれだけ多く出ける事になる。ね、言うならまた、このご信者さん方が、ほんとに助かられる。現在のご信者さん達が助かられると言う事によって、いよいよ沢山の人が助かっていかれる力になる。ね、その助かっておると言う喜びが、私自身、一人の喜びが、家族中の者が助かっておるとこう言うおかげを頂いてと言う喜びが、ここにおかげを頂いておる信者一同のおかげを頂いて助かっておるその喜びが、次のおかげの世界を又広めたい、深めたりして行く私は訳だとこう思うんです。
私の信心が中心、それが家族中の者の信心が、またそれに輪をかける。ここにおかげをいただいておる者の信心の喜びが、又輪をかける。そこに、私はいよいよ比礼が比礼を生んで行くおかげ。
ところがどうでしょうね、そりゃ勿論詫びもあります、願いもありますけれどもです、例えば今晩のご祈念前に家族の者が出て来てお礼を申させて頂いておるとですたい、ね神様、おかげを頂きまして有り難うございますと、子供達に至までがあなたのご恩徳の中に生かされておることを、あのようにしてお礼を申し上げておりますと言うだけでいいでしょうが。ところがさあー、ご祈念は始まっておる、二階でテレビどん見よるといったようなのがあったり、ご祈念の時間がわかっておりながら、まだガタガタしておったりするような事ではです、ほんとに神様相済みませんと詫びなければならないでしょ。それ、詫びなければならないだけ、お礼を申し上げるのと詫びるのとどれくらい違うかと言うこと。ね、詫びて又願わなければならいと言う手間がいる、手間がいるて言うか、それだけおかげの方に暇がいると言う事になる。ね、ここで私が先ず助からにゃならん、と同時に、その助かりの喜びが皆んなにあふれて、皆さんの頂くおかげになる。
家族中の者が助からなきゃならん、その家族中の者の助かりが喜びが、また信者さん方にも広がって行かなきゃならない。信者さん方が助かっていかれるその喜びが、また道の信心の人達の所へです溢れて行くようなおかげになっていかにゃいけないと、私思うです。今晩、私、何かそう言うような有り難い気持ちでえー神様へお礼を申させて頂いたのですけどもね。いよいよ信心を判らせて頂き、もう、例えば、光昭が幾つでしょうか、十五かね十六、十四、十四才もう十四才になるならばもう兄ちゃん達には、もう、ほんとに、兎に角修行ができりよった。ね、もう兎に角、家族の者がです、一生懸命正面に立ってからご理解でも頂いておってくれとる時ほど、私の心の喜びと言うものはない。はあーこの人達には手はいらん、この人達は心配いらん、その心配はいらんと言う思いが、ご信者さん達の方へかけられる。信者さんだんの事じゃなか、自分の家庭の者が助かっておらない、信心が判ってない、道を知って居ないというような事であっては、それだけご信者さん方の方にかけられるところの祈りが少なくなるような道理だから、ね、家族の者がここんところ一つおかげ頂いてこれがどうだろうね、これで私が一生懸命商 売なり、なにか働きなり勤めなりしてからこれだけの大家族を養うして行きよると言うならば、さあーその、今日学校に千円、五百円、まあ何人も、沢山の子供達が、言うならもうほんとに、その度に、もう青息吐息ならんだろうと。言わば、要るだけ、ほんとに何かかに不自由一つさせんで、あの、済むようなおかげを神様が下さっておると言うこと。
もうこの事考えただけでも、神様、日日の有りがたーいお礼のお届けぐらい、ね、ただ皆さんが出てくると言っても、ご祈念に出てこなきゃ私はおれないと私は思うと。ね、それだけがまた信者さん達が助かって行かれる力、余力になってくる。ね、いよいよ多くな、沢山の人が助かって行かなければならない為にも、先ず家族の者がほんとに助からなければならない。
成る程、神様のお賄いを何不自由なしに受けておる者としての私信心が出来ていかなきゃならないね。 そう言う、ここでご縁を頂いいる信者さん達にもそれが言える。
ほんとの助かりになって行く時に、次々と新しい、まだ信心を知らない人達の上にまで溢れていく喜びが、その潤って行くと言う事になるのですから、ね。
                  「おかげ頂きました」